外国人リポーターと日本人アシスタントが一緒に完成させた記事を、日本語と母語で紹介します。
津城の起源は戦国時代の永禄年間(1558年 - 1569年)。現在、歴史的な城跡として、国内外の観光客が訪れています。
1キロメートルに囲まれているような公園になっています。
北門にある「丑寅櫓」は観賞用に新しく白い色にして、復元されています。
藤堂 高虎(とうどう たかとら)の像が歴史の憲章として園内に英姿颯爽と立っています。
【津城为日本名城,别名(安浓津城)】
津城起源于战国时代永䘵年间(1558年~1569年)。
现在做为旧城遗址深受国内外游客爱戴。
已被整备为一个被碧水绿茵环绕的城堡公园。
北门的「丑寅櫓」为便于观赏而再建,颜色复原为白色。
藤堂 高虎(とうどう たかとら)的雕像依旧像历史宪章一样英姿飒爽地矗立着。
2018年6月23日、津城跡見学の活動に参加しました。安濃津ガイド会の関さんはボランティアとして私たちにガイドをしてくれました。
観光客のため、津城跡東側に観光案内の拠点「津まんなかガイド詰め所」がありました。土・日曜日に安濃津ガイド会や津観光ガイドネットのメンバーら2、3人ボランティアガイドが待機します。また、津城について、観光チラシを配布しています。中に津城周辺散策マップもありました。
大変な雨の中、安濃津ガイド会の関さんはボランティアとして親切にいろいろ案内・説明してくれました。津市に住んでいるみなさん、津城に興味ある方、是非行ってみてください。津市に新たな印象ができると思いますよ!
2018年6月23日,我们参加了参观津城遗址的活动。安浓津导游会的关先生作为志愿者给我们做了向导。
津城遗址东侧有专为游客设置的名为「津まんなかガイド詰め所」(“津市内导游值班室”)的观光指南据点。周六日安浓津导游会和津观光导游网会派两到三个志愿者过来值班。而且在这里配布有关于津城观光的宣传单,宣传单里还有漫步津城周边的地图。
在大雨中,安农津导游会的关先生特别耐心地给我们做了向导并介绍了津城。住在津市,或者对津城有兴趣的各位,一定要过来看一看哦,相信你会对津市有新的印象!
6月23日土曜日、安濃津ガイド会の関さんのご案内で、私たちは津城跡を見学しました。津城は安土桃山時代に築城され、現在まで約450年の歴史があります。津城跡には二つの堀があり、内堀と外堀に分けられています。外堀には川の水が引かれていました。平地に石垣で建てられた津城は、日本の代表的な平城として軍事のために使われていました。現在は、観光地として知られています。私は、津城跡の見学を通して、中国の古代の城を思い出しました。例えば、万里の長城なども、津城のように軍事のために建てられ、現在は有名な観光地になっています。
6月23日星期六,由安浓津导游会关先生做向导,带我们参观了津城遗址。津城建于安土桃山时代,距今已有450年的历史。津城遗址有两条护城河,分别是内护城河和外护城河。外护城河里的水源来自河流。在平地上用石墙建起来的津城,是日本很有代表性的平城,过去曾被用于军事目的。如今,津城则成为了知名观光地。通过参观津城让我联想到了中国古代的城池遗址,比如万里长城等,最初也是像津城一样用于军事目的而建,现在已成为了世界著名的观光地。
日本の名古屋から電車で一時間位、南下したところに位置する三重県の首都である津市には、有名な観光地の津城があります、戦国時代の有名武将であった織田信長の弟織田信包は1580年に築城し、その後、お城の名手藤堂高虎に改修された城です。三津七湊の一つと言われて、江戸時代も名所でした。日本にとって珍しいほど100メートルの幅の内堀がありましたが、現在は、お城の外堀もなくなって、内堀の一部しか残っていないです。でも最も特徴がある石垣は残りました。大きい石垣は石の形の違い組み合わせる方法によって、強度を持たせた壁になりました。お城公園では、大きい藤堂高虎の騎馬像を見ることができます。現在は津市の桜名所になっています。
古い感じがする石垣と共にあった桜の木を見た私は、歴史の流れを感じました。
从日本名古屋坐大约一个小时左右的电车,就可以到达位于名古屋南下位置的三重县,三重县的县厅所在地是津市,津市有观光名胜津城遗址。津城是由战国时代的有名武将织田信长的弟弟织田信包在1580年修建,之后又经过了修城名家藤原高虎之手改修,成为了被誉为三津七凑之一的名城,在江户时代也是著名的旅游胜地。长达100米的内护城河在古代日本是很罕见的。现在,外护城河已经被掩埋,只剩下了内护城河的一部分。但是,津城最有特色的石壁被全部留存了下来。巨大的石壁,采取了整合不同形状石头的建筑方式,形成了坚固的津城城墙。在津城公园,我们可以看到巨大的藤堂高虎骑马像。津城公园现在是三重的赏樱胜地。
古老的断壁残垣和樱花相交辉映,让人在其中感受到了历史的流逝。
平成30年6月23日、津城跡・お城西公園に、外国人リポーターと日本人アシスタント達が、雨の中安濃津ガイド関守さんの案内で、津城跡取材を行いました。今回の活動は三重県が、外国人・留学生達が将来三重県の企業で活躍するために開催しました。これからも外国人リポーターと日本人アシスタント達が、チームを組んで三重県で外国人が活躍している企業を訪問することを企画しています。現在、日本は人手不足の問題に直面しています。外国人・留学生が活躍することで、この問題が解決されることを楽しみにしています。
平成30年(2018年)6月23日,在津城遗址城西公园,由外国人及当地日本人志愿者组成的实习记者团,在安浓津导游会关守先生的带领下,雨中进行了津城遗址探访活动。本次活动是由三重县主办的,为了便于外国人以及外国留学生今后可以活跃在三重县的各个企业。此后实习记者团将分成小组,对三重县境内活跃着外国人员工的多家企业进行采访。现在日本各地面临着人手不足的严峻考验,期待着外国人及留学生的大显身手能够解决这一难题。
今回、私達は三重県の津市にある藤堂高虎の城、津城へ取材しに行きました。
それと津城を建てたのは藤堂高虎ではなく織田信長の弟の"織田信包"である。
1571年に信包が築城工事を始め1580年に津城が完成しました。そして1608年に徳川家康の命により藤堂高虎が伊勢、伊賀の領主となり藤堂高虎が津城の主となる。
1611年に津城の大修築を始めた。藤堂高虎は城を建てるのが凄く上手な人でした。その津城の最大の特徴は幅の広い堀と本丸北側の石垣に代表される直接的な稜線です。
1662年には二の丸より出火して、津城が焼失してします。でも1670年には津城を再建しました。次には1879年城の中の内側から出火して、焼失。外郭の平櫓もほとんど取り払いました。1885年では本丸の櫓や多門櫓など取り壊されました。これが、津城の主な歴史です。
Desta vez fizemos uma reportagem sobre o castelo de Tōdō Takatora, localizado na cidade de Tsu, província de Mie.
O castelo não foi construído por Tōdō Takatora, foi construído por Oda Nobukane, irmão mais novo de Oda Nobunaga.
Em 1571, Nobukane deu início a construção e foi concluído em 1580. Em 1608, sob ordem de Tokugawa Ieyasu, Tōdō Takatora tornou-se o senhor feudal de Ise e Iga, tornando-se o maioritário do
Castelo de Tsu.
Em 1611, foi dado início a grande reforma do Castelo de Tsu. Tōdō Takatora foi um exímio construtor de castelos. A principal característica do Castelo de Tsu é o largo fosso e a crista
representada diretamente pela muralha de pedra localizada ao norte da ala principal.
Em 1662, um incêndio originado na ala 2 destruiu o Castelo de Tsu. Mas em 1670 o Castelo de Tsu foi reconstruído. Depois em 1879, outro incêndio na parte interna destruiu o castelo. A parte
externa da torre térrea de vigia também foi praticamente destruída.
Em 1885, a torre de vigia da ala principal e as torres das várias entradas foram demolidas. Essa é a principal história do Castelo de Tsu.
2018年6月23日土曜日、三重県主催の取材で津にある津城お城公園に行ってきました。津城は三重県津市丸之内にあり、津市街の中心部に位置しています。 津のランドマークともいえる津城は、城公園として美しく整備されており、春の桜に続き、初夏のアジサイ、秋の紅葉など、四季折々の情緒ある風景が広がり、中でも春は、苔むす石垣と桜のコントラストが格別の美しさです。
その中でも津城の最大の特徴は、幅の広い内堀と本丸北側の石垣に代表される直線的な稜線を持った石垣です。
石垣の上に建つ白壁の櫓が堀の水面に映える姿は、まさしく「水城」と言えます。更にその外側には「天然の堀」ともいえる安濃川と岩田川が城の北と南を流れています。津城は、安濃川下流域の海に近い場所に位置しているといった地理的環境を利用し、人工的な二重の堀に加え、川も城の防御施設として取り込んだ高虎の巧みな築城術が見られます。特に、南側の岩田川と外堀を繋ぎ、満潮時には海水入るようにしたところは「鯔堀」と呼ばれ、海魚が堀の水面を跳ねる姿を捉えた名前となっています。
観光・見学については24時間365日可能であり、土曜・日曜・祝日9時~16時半までボランティアガイドの方が案内なさってくれます。私達が行った日はたくさん雨が降っていて少し残念でしたが、天気が良い日はゆっくり眺めながら散歩するのにとても素敵な場所です!
2018년 6월 23일 토요일, 미에현 주최의 취재로 쓰에 있는 쓰성 오조공원에 다녀왔습니다. 쓰성은 미에현 쓰시 마루노우치에 있고, 쓰시 중심부에 위치하고 있습니다. 쓰의 랜드 마크라고도 불리는 쓰성은, 성곽 공원으로 아름답게 정비되어 있으며, 봄의 벚꽃에 이어, 초여름의 수국, 가을의 단풍 등 사계절의 정취 있는 풍경이 펼쳐지고, 그 중에서도
봄은 이끼 낀 돌담과 벚꽃의 대비가 굉장히 아름답습니다.
그 중에서도 쓰성의 가장 큰 특징은 넓은 내해자(内堀)와 본성 북쪽의 돌담으로 대표되는 직선적인 능선을 가지고 있는 돌담입니다. 돌담 위에 세워진 하얀 벽의 망루가 해자의 수면에 비치는 모습은 바로 "물의 성(水城)"이라고 말 할 수 있습니다. 또, 그 바깥 쪽에는 "천연의 해자"인 아노 강(安濃川)과 이와타 강(岩田川)이 성의 북쪽과 남쪽을
흐르고 있습니다. 쓰성은 아노강 하류 역의 바다에 가까운 위치에 있다는 지리적 환경을 이용해, 인공적인 이중 해자를 더해, 강도 성의 방어시설로 가져온 도도 다카토라(藤堂高虎)의 뛰어난 축성기술을 볼 수 있습니다. 특히 남측의 이와타 강과 바깥 해자를 연결 하여, 만조 시에는 바닷물을 들어가게 한 곳은 "치굴(鯔堀)"이라고 불리며, 바닷물고기가
해자의 수면을 뛰는 모습을 담아 이름이 지어졌습니다. 관광과 견학은 24시간 365일 가능하고, 토, 일, 공휴일은 9시~16시 반까지 자원봉사 가이드가 안내를 해주십니다. 저희가 갔던 날은 비가 많이 내려서 조금 아쉬웠지만, 날씨가 좋은 날은 천천히 구경하며 산책하기 아주 멋진 곳입니다!
今回は、研修を受けて、その後、直接お城跡の探訪もして学んだことが多かったです。
特に私は堀と石垣の説明を集中して聞きました。歴史も深くて、見れば見るほど雄大で感嘆しながら見ました。
その他には、シロモチの由来がとても面白かったです。これについては面白かったので自分でネットを調べてみました。
ほかにも良い場所がたくさんあり、説明も多く、日本文化の勉強になりました。
이번에는 연수를 받고 그후에 직접 성터의 탐방도 하여 많은 것을 배웠습니다.
특히 저는 수로와 돌담의 설명을 집중해서 들었습니다.역사도 깊고, 보면 볼수록 웅대하여서 감탄하며 보았습니다.
그 외에는 흰떡의 유래가 아주 재미있었습니다. 이것에 대해서는 흥미기
있어서 제가 직접 인터넷으로 따로 찾아보았습니다.
그외에도 좋은 곳이 많이 있고, 설명도 많이 해주셔서, 일본문화의 공부에 도움이 되었습니다.
今回、私達は三重県津市にある 津城祉とその周辺を取材しました。
皆さんは津市のゆるキャラである ”シロモチくん” をご存知でしょうか?
津市にはいくつかのゆるキャラがあるのですが、この中で津城と最もつながりがあるのがこの”シロモチくん” です。
でも、なぜ ”シロモチくん” なのでしょうか?
実は、このゆるキャラ名は昔・津城の城主であったあの有名な
藤堂高虎公の若いころの逸話が関係しているのです。
そもそも、 ”シロモチくん” は、どんな形をしているかというと、若いお侍が兜をかぶって座っているような形なのですが、なんとその体が御餅を三段積み重ねたような作りになっています。
それは、この高虎公がまだ若い一介の侍であったころ、彼が育った尾張の国のとある御餅やさんで注文し・出された御餅をお腹一杯食べてしまったのですが、その時はまだ十分なお金がなく御餅の代金を払えなかったことがありました。
その時、餅屋の主人は高虎公の懐具合を理解し、自分の店の自慢の御餅を腹いっぱい食べてくれたことをむしろうれしく思い、”お侍様が将来出世なさったらその時に今回の御餅の代金を支払っていただければよいですよ” と、無銭飲食を見逃してくれたばかりか、それに加えて励ましの意味のお金まで出してくれたのでした。
高虎公は、以後、そのことを常に思い出し・思い返すべく、三段に積み重ねた御餅を自分の旗竿のシンボルに描き、自分を励まし出世の道を歩んだということです。
三段の御餅は、侍として出世して いつか ”城持ち”(城主)になれるようにとの願望と、”白い御餅” を腹いっぱい食べさせてくれた餅屋の主人へのお礼の意味が兼ね描かれたものなのです。
Esta vez nosotros hacemos un reporte del Castillo de Tsu en Tsu-si de Mie-ken.
¿Ustedes conocen al “Siromochi-kun”, que es una mascota muy famosa en Tsu-si ?
Hay varias mascotas en Tsu-si, pero este Siromochi-kun tiene más relaciones con la leyenda del Castillo de Tsu.
¿Ustedes saben por qué la mascota se llama “Siromochi-kun ” ?
Dicen que el nombre de la mascota “Siromochi-kun” viene de una anécdota del Señor del Castillo de Tsu, “Toudou Takatora” en su juventud.
Ante todo, ¿cómo es la forma del “Siromochi-kun”? Se parece a un joven samurai que está sentado poniéndose su capacete en su cabeza, y la forma es como si fuera tres “mochi”s (torta de arroz) apilados.
Esa historia ocurrió en “Owari no kuni” (“Aichi-ken” actual) donde el Sr. Toudou Takatora en su juventud se había criado, y cuando él era un mero joven samurái. Él se comió bastante platos de “mochi” que él había pedido en una tienda de comida de mochi, pero en ese tiempo el joven “Toudou Takatora” no tuvo suficiente dinero para pagar el mochi.
Lo comprendió el dueño de la tienda de comida de mochi, y más bien el dueño se alegría que el joven samurái había comido bastante mochi del cual estaba orgulloso de su tienda hasta saciarse.
Y le dijo el dueño al joven “Toudou Takatora” que cuando el señor sería un buen “samurái” y un buen líder me podría dar el dinero del mochi.
Así el dueño le dio al joven “Toudou Takatora” no solo el mochi de gratis sino también algunos dineros para alentar al joven samurái.
Desde entonces el Sr. “Toudou Takatora” había hecho su propio estandarte con un símbolo parecido a tres mochis apilados para que nunca se olvidara de eso y al fin se había situado muy bien.
Pues ¿qué significa el “Shiromochi”?
“Shiromoti” en japonés significa en primero torta de arroz con buena calidad. Eso es para decir gracias al dueño de la tienta de comida de mochi. Y otro lado significa tener su castillo, es decir ser un señor feudal.
Eso es el significado de su estandarte con símbolo de “Mochi”.
Y esto es el significado del nombre del “Siromochi kun”
私が今回取材で感じたのは「津城の歴史」のことです。
雨の中、みんなに津城の紹介して下さった安濃津のガイド【関さん】から、昔、日本に港がある町は町の名前に津が入ると聞きました。
津は、日本三津(福岡の博多津・鹿児島の坊津・そして三重の安濃津)の一つと言われ、安濃津は津の昔の名前だと教えてくれました。 安濃津は城と港があって町が盛んでいたようです。
今も観光地で有名な伊勢神宮は江戸時代から人口の五分の一が伊勢神宮を訪ねたそうです。
交通も不便な中、東京から歩いて二週間かかったそうです。
私は今回津城の話を聞き、伊勢神宮に行く道が安濃津に寄らなければならなかったので、その時の宿場や食堂などの様子が、今の観光地とそこまで変わってないことを知り、面白いなと感じました
【제1회 취재 쓰성터 레포트】
제가 이번 취재에서 느낀 것은 「쓰성의 역사」입니다.
비가 오는 날씨에도 불구하고, 모두에게 쓰성을 소개 시켜주신 아노쓰의 가이드 「세키」씨로부터 옛날, 일본에서는 항구가 있는 마을의 이름에는 「쓰」가 들어간다고 들었습니다. 쓰는, 일본 세개의 쓰(후쿠오카의 하카타쓰, 가고시마의 보쓰, 그리고 미에의 아노쓰)중 하나로, 아노쓰는 쓰의 옛 이름이라고 가르쳐주셨습니다. 아노쓰는 성과 항구가 있어 마을이
번성했었다고 합니다. 지금도 관광지로서 유명한 이세 신궁은 에도 시대 때부터 인구의 약 오 분의 일이 이세 신궁을 방문했다 합니다. 교통도 불편한 가운데, 도쿄에서 걸어서 2주간 걸렸다고 합니다. 저는 이번 쓰성의 이야기를 듣고, 이세 신궁에 가는 길이 아노쓰에 들르지 않으면 안됐기에, 그 때의 숙박시설이나 식당등의 모습이, 지금의 관광지와 그렇게
바뀌지 않았다는 것을 알았고, 재미있었다고 느꼈습니다.
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